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おおたニットとは  - about -

太田市はかつてニットの町でした

戦後、太田市の産業の中心であった中島飛行機は解体され、技術者がたくさん市内に集まっていました。その技術者が太田市で手紡機を使ったことと、桐生市などの繊維産業地帯が周囲にあったことが幸いし、太田市でのニットづくりが始まったと言われれいます。
 
女性用のセーターやカーディガンを得意とし、東京近郊という地の利を生かしながら時流に乗ることで、太田市におけるニット製造業は瞬く間に広がっていきました。当時工場に勤める人以外にも、内職などで手伝ってくれる人達を入れると相当な数の人々がニットづくりに携わっていて、地域経済をリードする一大産業となっていきました。 

 
おおたニット「編み機」

業界のシフトとニット産業の衰退

1952年には太田ニット工業組合(旧太田メリヤス工業協働組合)の加盟数は141社に急増、68年には地域のランドマーク・太田メリヤス会館が完成、80年代には最高出荷高を記録します。右肩上がりに成長してきた太田市のニット産業、しかしその背後には大きな変化の波が忍び寄ってきていました。海外生産へのシフトです。バブルがはじけ、90年年代になるとアパレル業界は安い労働力を求めて商品の海外生産へシフトを進めることになります。その結果、かつて90%以上を占めた国内シェアは数%に落ち込み、受注数は激減、太田市のニット産業は衰退の一途をたどることになります。各社品質での差別化を図るものの、質を求めるには技術が必要となり、他業種へ転換する事業者も増え続け、さらには後継者が育たない中、一件また一件とニット業者は姿を消していきました。 

おおたニット「太田ニット工業組合」

OTA KNIT(おおたニット)の誕生

こうして一時代を築いた太田市の”ニット産業”は姿を変えざるを得ませんでした。現在組合員は10社を切る状況ですが、それでもニットづくりにかける想いは脈々と息づいています。そしてその想いを消さない、後世につなぐその役割として生まれたのが「OTA KNIT(おおたニット)」です。太田のニットを市内外に知らせることはもちろん、より良いものづくりを通して太田のニット製造業を元気にする、その為の具体的なアクションとして誕生しました。

 
おおたニット「商品用下札」

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